2018年06月22日
  コラム

日記からみた江戸時代 第4回 将軍が我が家にやってきた

東北大学東北アジア研究センター上廣歴史資料学研究部門 准教授    荒武賢一朗

第4回 将軍が我が家にやってきた

 

みなさんもよくご存じのように、江戸時代の政治でトップにいたのは将軍(正式には「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」)でした。この将軍は、初代の徳川家康から最後の徳川慶喜まで15人いますが、8代吉宗のように30年近く将軍の座に君臨した実力者もいれば、その前の7代家宣(いえのぶ)はわずか4歳でその職につき、幼いまま3年あまりで亡くなるという場合もありました。

 

そのなかで今回注目するのは、14代の家茂(いえもち)です。家茂は、幕末期に13歳で将軍となって、20歳の若さでこの世を去りましたが、本拠地の江戸を離れて京都や大坂(江戸時代は「大坂」)に出かけるなど、ちょっとほかの将軍とはちがう動きをみせています。

 

現代の内閣総理大臣は東京を拠点にして、外国を訪問して外交を展開し、また地方に出張して政策の推進をおこなうなど、忙しく動き回っている様子がニュースで紹介されています。しかし、将軍の場合はほとんど江戸から出ることはありません。どこかに訪問するといっても、自分の配下にある大名の江戸屋敷を訪問するなど、ごく限られたものでした。こうした江戸城から将軍が外出することを、「将軍御成(おなり)」と呼んでいて、訪問を受けた大名たちはまたのない出来事として、その栄誉に喜んだといいます。

 

徳川家茂が江戸から上洛(じょうらく、京都へ行くこと)を果たしたのは、文久3年(1863)のことでした。将軍が上洛するのは3代の家光以来、実に229年ぶりという珍しい出来事です。その直後に起こった長州征伐(幕長戦争、長州戦争ともいう)でも、家茂自ら京都および大坂に出陣しています。

 

長州征伐では、幕府軍の拠点となった大坂城に家茂は陣取ったわけですが、現在の山口県およびその周辺が主な戦地であったので、大坂周辺に滞在する将軍は比較的余裕のある状況だと考えられています。ただし、江戸から飛び出した若き将軍は積極的に活動をしていたようで、幕府軍がおこなう軍事演習や、関係する地域の視察に訪れていました。そのひとつが大坂城から少し南にある川中鉄砲場の巡見でした。

▲桜井慶次郎の屋敷(加賀屋新田会所) 加賀屋新田を開発した地主・桜井家(加賀屋)の屋敷で、現在は加賀屋新田会所跡・加賀屋緑地として建物・庭園が保存されている(大阪市住之江区)。

 

川中鉄砲場は文字通り、幕府の兵士が鉄砲の訓練をおこなう施設です。これがあったのは加賀屋新田(かがやしんでん)という村で、そこには桜井慶次郎という地主がいました。慶次郎はおよそ15年間、日記を書き続けて自分の身の回り、あるいは社会の動きなどを細かく記録しています。その日記の内容から、彼が心を躍らせたのは「将軍様御成」だったことがわかります。

 

つまり、慶次郎の自宅に将軍家茂がやってくるのです。いまの感覚ならば、総理大臣が我が家を訪問する、といったことになるでしょうか。広大な田畑を所有する慶次郎は、地域のなかでよく知られたお金持ちだったわけですが、公務の途中に立ち寄るだけとはいえ、民家に将軍がたずねてくるというのはめったにありません。

 

将軍が加賀屋新田を訪問するという知らせを聞いた慶次郎は、自宅の修築や周辺の道路を整備するという工事に着手します。ちなみにこれらの費用は、すべて慶次郎が支払っています。工事には大工などの職人、桜井家で仕事をする奉公人や、村人たちも動員されたと思われますが、1年余りの準備期間をもって作業が進められました。

 

慶応2年(1866)2月14日、慶次郎にとっては念願の将軍来訪のときを迎えました。その前日にはたくさんの村人が道路の掃除を、8人ほどの植木職人が庭の手入れを、そして幕府の役人が事前の下見に訪れるなど、あわただしい様子が見えてきます。当日、将軍は配下に1000人ほどを従え、桜井家に到着しました。

 

実際に滞在したのは午前11時ごろから午後1時までの2時間程度でしたが、慶次郎が家茂訪問のために建築した新座敷、摂海(せっかい、現在の大阪湾)を一望できる高楼にも家茂が入り、慶次郎の日記には「将軍様が大変ご機嫌よく昼食を済ませた」と書かれています。

 

慶次郎は将軍の来訪を名誉なことだと思い、その直後から今回の出来事をくわしく記録すること、また関係した幕府の役人に対する御礼などをおこなっています。その一方で、将軍が滞在した新座敷を見たいという近所の人々がたくさん集まってきたものの、新座敷のなかに入ることは誰にも許さず、遠くから眺めるのは認めたと書いています。

▲広島県・厳島神社 日本三景のひとつ、通称宮島で、江戸時代にも多くの参拝客が訪れた。桜井慶次郎は、元治2年4月26・27日の2日間滞在している(広島県廿日市市)。

 

桜井慶次郎は、同じころにもうひとつ貴重な経験をしています。それは幕末期に幕府や大名家が導入した軍艦(西洋型の蒸気船)に乗ったことです。元治2年(1865)4月、慶次郎は付き合いの深い紀州徳川家が所有する軍艦「明光丸」に乗せてもらい、大坂から瀬戸内海を経て広島の宮島まで旅行をしました。民間人が軍艦に乗ることは極めて珍しいですが、船内では慶次郎と同じように招待された商人たちが集まって宴会をおこない、宮島ではおみやげに「しゃもじ(現在も宮島の名物)」を買っています。

 

普段は仕事のことで頭がいっぱいの慶次郎も、このときばかりは船旅を満喫したようです。ちなみにこの明光丸は慶次郎の宮島旅行から2年ほどたったあと、坂本龍馬率いる海援隊が借りていた蒸気船「いろは丸」と衝突事故を起こし、幕末期の一大事件「いろは丸沈没事件」として広く知られるようになります。

 

プロフィール

荒武 賢一朗(あらたけ けんいちろう)

東北大学東北アジア研究センター上廣歴史資料学研究部門 准教授

日本近世史・経済史専攻。江戸時代の経済や社会を古文書から分析する。地域で大切に守られてきた歴史資料を保全し、未来への継承を目指している。

※所属等は取材当時のものです。

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