2018年10月16日
  コラム

見えない侵略者 第2回 人と感染症の戦いの歴史-プロローグ2

東北大学名誉教授 磯貝惠美子(いそがい えみこ)

 

第2回 人と感染症の戦いの歴史-プロローグ2

 

第2回目のペスト世界流行は中世ヨーロッパを舞台とし、黒死病として恐れられていました。この流行は大きく11世紀と14世紀の2つにわけることができます。また、ともに軍事行動という人の大きな移動と関連しています。11世紀のペスト流行は十字軍の帰還船がクマネズミをペストとともにヨーロッパにもたらしたものです。14世紀のペストは全ヨーロッパを震撼させただけでなく、ロシアから中央アジアに広がりました(図1)。

図1.ペストの世界拡散

 

バーナード ディクソンの「ケネディを大統領にした微生物」によれば、以下のように記載されています。1344年、ヨーロッパと中国間の陸路交易に従事していたイタリア人商人一行が、タタール人遊牧民による攻撃から逃れるため、クリミア半島海岸のカファに避難しました。ここでタタール人遊牧民と2年間包囲戦が行われます。

 

1346年、疫病が発生、双方に多数の死者を出し、戦争継続が不可能となりました。タタール人たちは、カスピ海方面に撤退し、この地方に疾病を撒き散らします。一方、イタリア人たちは、疫病を避けて海路ジェノアに脱出しました。船がジェノアに到着後1日~2日後、疾病が発生し、またたく間にヨーロッパ中に広まり、1352年にはモスクワに達します。コーカサス地方が発生源で通常毒性がそれほど強くないペスト菌が突然変異したことがわかっています。

 

ペスト菌の遺伝子の中のたった一つのコードが突然変異により書き換えられたことが極端に毒性の強いペスト菌になった原因です。1347年のヨーロッパでの大流行は現在の研究からシルクロード経由だと考えられています。1346年にボルガ川流域の二つの隊商の拠点で発生していたことがわかっていて、この地域のマーモットの毛皮(くまねずみ、蚤つき)が黒海のカファという町に集積され、そこからヨーロッパに伝搬したとされています。ヨーロッパだけでなく、ペストは中国でも大流行しました。

 

中国(当時は元)1333~1337年にかけ、干ばつのため大飢饉が発生し、400万人が死亡したとされています。さらにペストが蔓延したことによって元帝国は一気に衰退し、朱元璋率いる明に倒されました。ヨーロッパでのペストの終焉は人々に安堵をもたらしました。多くの地域にペスト終焉の記念碑が建てられました(写真1,2,3)。

写真1 ウイーン旧市街地にあるペスト記念碑

 

写真2 中世ヨーロッパではペストは神の罰という認識

 

写真3 中世ヨーロッパではペストは神の罰という認識

 

ペストという病気はアルベール カミュのペストという小説(1947年出版)を読むと理解しやすいかもしれません。この物語の舞台はアルジェリアのオラン市です。はじまりは、一匹の死んだ鼠でした(図2)。

図2.強毒ペスト菌によって鼠が死亡-そして保菌ノミは新たな吸血対象を模索する

 

そもそもペストの感染サイクルは本来ネズミ→ノミ→ネズミ→ノミです。自然界ではこれで病原体の維持が行われていますが、ペスト菌常在地域からネズミやノミがヒトの世界に持ち込まれると、まずペスト菌感染によってネズミが死にます。ノミは吸血対象をネズミからヒトに変え、ペスト菌を感染させます。

 

小説の中ではネズミの死体は増え続け、明け方死んだネズミを一掃したとしても、その日のうちにあらゆる場所でそれ以上の死骸が見つかっていきます。ある1日だけでその数は6231匹とあります。やがて、死者が出はじめ、リウー医師(この物語の主人公)は死因がペストであることに気付きます。新聞やラジオがペストを報じ、町はパニックに陥ります。死者の数は増える一方となり、町は外部と完全に遮断されます。カミュは脱出不可能の状況で必死に闘う市民たちの姿を淡々と描きました。

 

不条理に対し闘う人々の姿は今を生きる私たちにも通じるところがあります。リウー医師の友人となりともにペストと闘ったタル-はペストの犠牲者となりました。タル-は言います-「僕は死ぬ気はないし、戦ってみせるよ。でも、もし勝負に負けたら、立派な終わり際をしたいと思う」。リウーは答えます-「だめだよ」と、そして「聖者になるには、生きてなきゃ。戦ってくれ」と(図3)。

図3.医師リウーは不条理に立ち向かう(アルベール カミュのペスト)

 

リンパ腺は燃えるように皮膚の下で節くれだち、胸はどこかに隠された火事場のあらゆる響きで鳴り響いているようであった-と病気の状態が記載されています。いったん、回復に転じたように見えた後、再び熱は絶頂に達し、咳は病人の体を揺さぶり、血を吐くに至ります。リンパ節は固く、間接のくぼみに捻じ込まれたような状態となります。苦痛に焼かれ、あらゆる憎しみの風にねじゆがめられ、みるみるペストの水中に没していく中、どうすることもできない状態-不条理とそれでも闘う人の姿です。

 

災厄は突然潮が退いたように終息します。人々は元の生活に戻ってゆきます。人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびネズミどもを呼び覚まし、どこかの幸福な都市で人を死に至らしめる日が来るであろう――と言ってこの物語は終わります。

 

日本では1899年(明治32年)に流行地の中国から侵入しました。この時は原因がわかっていたため、多くの対応策がとられました。それでもペスト侵入から27年間にペスト患者は2905人にのぼり、うち2420人が死亡したとされています。それ以前、その後においてペストの流行はありません。搬送には人力で釣台といわれるストレッチャーのようなものが使われていました(図4)。

図4. 明治のころの患者の輸送風景

患者様は当時ストレッチャー様の釣台で運ばれました。道すがらあるいは病院到着後すぐに命を落とすことも多かったそうです。

 

現在の日本ではほとんど見られないような多くの感染症があった時代、明治の避病院として機能していた駒込病院は別名死病院とさえ言われていました。津波のように押し寄せる感染症に対して立ち向かった明治の医療陣の苦悩はその日誌を読むとよくわかります(明治の避病院、磯貝 元)。そして、いま新たな課題が私たちに投げかけられています。

 

プロフィール:

磯貝惠美子 (いそがい えみこ)

東北大学名誉教授

東北大学の磯貝惠美子と申します。これまで、人や動物に病気を起こす細菌の研究などを行ってきました。見えない侵略者-微生物感染症を中心にコラムを連載していきます。よろしくお願いします。現在は40年間にわたる研究生活を終えてフリーター人生を楽しんでいます。東京下町生まれの江戸っ子です。動物のお医者さんになる!(+アフリカに行く)と決めて、北海道大学獣医学部に進学しました。ラスト8年間は東北大学農学研究科動物微生物学分野で学生さんたちと細菌感染症や抗菌ペプチドの研究など頑張ってきました。東北で生きる科学者の使命として福島原発問題に対峙し、被災家畜を通して内部被ばくの実態調査なども行ってきました。人生は短い-1日1日を大事に生きていきたいと考えています。

 

趣味はいろいろ。アニメやマンガも大好きです。ライム病の研究がてらマダニ採取が趣味の時もありました(ダニコレ)。石を集めていた時もあります(イシコレ)。絵を描くことも好きですが、学会発表の時のパワポを作成するぐらいでした。コラムではせっかくなので、絵や4コマ漫画なども描いてみたいと思っています。

 

※所属等は取材当時のものです。

 

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